絵への想い


あをによし日記

〜日々の制作風景より〜


日本画の制作の過程において「スケッチをする」という行為は、何時間も対象物と向き合ううちにその世界に溶け込み、自然と一体になる行為であると思います。無心に対象と向き合っていると木々のそびえ立つ様や、風になびく枝、舞い落ちる花びらなど、それぞれの姿から生物の種を超えて「生きていく」という真の姿を教えられます。

樹齢100年の楠と向き合いスケッチをしていた時のことです。大木に見えるその楠は3本の木から成っていたのですが、左右のバランスもよく、まるで1本の楠の大木のようでした。木は成長する時にガスの一種であるエチレンを放出し、その作用で木々同士お互いにバランスをはかって成長していくのです。

又、風になびく葉桜と向き合っていた時のことです。あまりに風が強かったため、私は一時も動きを止めない枝を眺めながら風が止むのを待っていたのですが、その姿を眺めるうちに、「風に抵抗せずになびくから、枝は折れずにすむんだ。そして、風が止んだ時に元の姿にすっと戻れるのは、その根がしっかりと大地に張っているからなんだ。」と感じるようになり、その姿は「日々思うように事を進められず、苦悩している自身」を顧みて、まるで「人が自らの器を知り、自らの持つ欲というものを自身でどうコントロールして生きていけばいいのか・・・」についての知恵を木々から教えられた気持ちになりました。

自然の中で色々なシーンをスケッチをしながら日本画の制作をしていると、「私たちが存在しているこの世とは物質的次元の世界で、日々向き合っている対象となるものが形や存在を変えたり、又失ったりした時に感情が生まれ、作者、人間としての魂が養われていく。「生きていく」ということはその繰り返しであり、その中で鋼のような魂や豊かな感情を養っていくことが生きていく上での目標であり、意味を持つものではないのだろうか。」という考えに至るのです。私の中では、そういった想いを投影する術として日本画が存在するのです。

日本画の画材には、世界の原始美術に使われている素材があります。例えば、岩絵具の中にある鉱石には水晶や孔雀石がありますが、これらも地球の中で何万年、何十万年という時を経て結晶化された、言って見れば地球のかけら。それらを砕き、膠で麻紙に定着させて描いていく。という一連の仕事は色々な命を重ねて描き上げる行為に感じるのです。

日本の中で日本画というジャンルが発展し現在までに至るのは、四季の移りかわりがあり、又自然災害も多い日本の風土というものが深く関わっているのだと思います。この「無常」という自然環境が我々の心を育んできたのではないでしょうか。形あるものを失うことと再生が繰り返されていく中でその儚さ、重みを感じ、感性が研ぎ澄まされていくのでしょう。

先に述べたように、日本画の画材は天然素材からなり、画材そのものに「命」を感じるのですが、私が作品に込める想いというのは、そういった日本画の画材の背景も感じてでしょうか、「生命のエネルギーに満ちた世界」を画面一杯にぶつけたいのです。又、この物質的次元の世界で、各々が最期に向き合わなければならないのは「命」自らの「命」です。この重みは私も失いかけて初めて知ることになるのでしょう。


日本画の画材との出会いは、私が小学校にあがる前の幼少期に、ある展覧会で観たキツネの日本画の絵でした。日本画の岩絵の具が、光に反射してキラキラと輝いて見える様子に、心が釘づけになりました。「あの絵の具はなに?」という、驚きと感動は昨日の事の様に覚えています。何げない日々の中で、色々な「いのち」に触れ、また、それらを失いかけた時、その、儚さ、重みを感じ、私自身の日本画という、フィルターを通して表現していきたいのです。

タイトルとURLをコピーしました